拠点移動のお知らせ
こんにちわ。
今更なんですが、ブログの拠点をnoteに移しました。
https://note.mu/kyonghagi
1年前に移転して、ずっと放置していましたが。
たまにアクセスをいただけるので、告知しなくちゃと思いまして^_^;
移転先では、なんか真面目な事を書いてる事が多いです。
あと、最近ロンドン滞在を始めたので、その話とかが載ってます。
もしよければ、これからもよろしくお願いします。
#仲パレ2014 開催に向けた応援メッセージ
昨年9月、当時のブログに、「仲良くしようぜパレード 東京大行進」に参加した感想記事を書きました。
今年も、まずは大阪で、パレードが開催されます。7/20に催される「OSAKA AGAINST RACISM 仲良くしようぜパレード」です。
http://nakapare2014.wordpress.com
このパレードは人種差別反対の意思表現として始まったものですが、排他主義を離れ、世界の多様性を受け入れ「仲良く」する事を掲げたパレードです。
世の中には、相手が少し自分と違うというだけで「仲良く」できない、という人々がいます。
その影には、「味方」の存在を感じる事ができず、ひどい言葉に傷ついている人々が確実に存在しています。
彼らに「味方」がいると見せてあげる事。
それだけでもこのパレードには価値があるし、だから私は主催側への敬意と感謝を惜しみません。
下記に引用しているのは、パレード開催に向けて、また、今しんどい人達に向けた個人的な応援メッセージです。
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自分にも昔、「仲良く」できなかった頃がある。
朝鮮学校に通ってた頃、日本社会の事は何も知らなくて、テレビやネットのひどい言葉に傷ついてばかりいた。当時、日本社会はただ自分達を攻撃してくる「敵」に思えた。
反抗期も重なって強く反発し、「日本人は嫌いだ」とまで思っていた時期が、半年〜1年間ぐらいあったと思う。
(今となっては赤面ものの黒歴史だ。)
排他的な考えを持つ人は、それだけ狭い世界に住んでいる。
線の無いところに線を引いて、世界を区切って閉じこもる。
そんなんじゃ勿体無い。もっと世界を楽しもう。
世界は多様だって事に、もっと目を向けよう。
朝鮮学校に通う後輩たちにも、見せてあげたいんだ。
学校の外は、「敵」なんかじゃない。
だから大丈夫。仲良く歩こう。
狭い世界に閉じこもった連中を、笑い飛ばしてやろう。
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仲パレが多くの笑顔に包まれる事、
そして、それを観た人々に多くの笑顔が咲く事を願ってやみません。
仲良くしようぜ。
俺達はお互い、敵なんかじゃ絶対無い。
日韓結婚アレコレ(2) 名字をどうしようか悩んだ話
こんにちわ。そんきょばです。
在日韓国人男性が日本人女性と結婚した話、第2段。
今回は「名字をどうしようか」考えた話です( ´ ▽ ` )ノ
※第1段の「国籍の違いについて親族の反応を気にしたって話」はコチラ
http://kyonghagi.hatenablog.com/entry/2014/05/06/140544
(1)国際結婚すると、名字はどうなるの?
彼女は、結婚してしばらくの間、職場でよく質問されたそうです。
「あれ?名字はどうなるの?」
答えは、「変わりません」。
在日韓国人の私と日本人の彼女の結婚は「国際結婚」にあたり、姓は自然と「夫婦別姓」になります。
別途申請すれば、名字を揃える事も可能でしたが、私たち二人は、別姓のままいる事を選ぶ事にしました。
いや、選んだのは私たち二人ではなく、私一人かもしれません。
彼女は、「名字を変えるのも構わないから、君の好きにしていいよ」と言ってくれていました。
悩んだのは、私の方でした。
国際結婚における名字の取り扱いは、ざっくり、次のようなものです。
①夫婦は別姓
②子供は、日本籍を持つ親の姓になる
③夫婦同姓にしたい場合、入籍から数ヶ月以内に、別途申請が必要
(期限を過ぎても申請可能だが、受理までの手間が増える)
ここで地味に気になったのが、②でした。
私達の場合、子供は彼女の姓になります。
私は両親からすれば唯一の息子で、名字を継げるのは自分しかいないという立場でしたので、「たった一人の長男として、家の名字を残していくべきなのではないか。」と、両親の反応を気にして考えたりもしました。
でも結局「別姓」のままを選択したのは、名字を残すべきかと考える一方で、(こう書くと両親は眉をしかめるかもしれませんが・・・)「この名字を(わざわざ手間をかけてまで)子供に残したいのか」という気持ちがあったからです。
(2)夫婦別姓を選んだ理由
自分の名字の事は好きです。
朝鮮半島でも比較的珍しい名字だとか、辿れば中国の王族の血筋だとか何とか、
そういうどうでもいいエピソードまで含めて、私は自分の名字を気に入っています。
でもこの国にいると、名前にまつわる、面倒臭い事が多過ぎました。
私は在日韓国人に生まれて、いわゆる「通名」を持たず、本名で暮らしてきました。
朝鮮語で読んでも、日本語で読んでも、ここ日本では「明らかに外国人」と聞き取れる名前です。
そのおかげで結構、面倒な思いもしてきました。
細かいものも含め、パッと思い浮かぶ例を挙げるなら、
- 名乗っても名前が相手に伝わらない(馴染みの無い名字なので)
- 会った人全員に出自の説明を求められる
- からかいの対象にされる
- 出自を明かした途端に突然、攻撃対象と見なされる
他にも挙げられるでしょうが、こんなところでしょうか。
たぶん、この手の面倒臭さは、経験者にしか伝わりにくいものだと思います。
珍しい名字の人にはわかってもらえると思うけど、
①ぐらいの細かい話でも、地味にめんどくさいしストレス溜まる。笑
②も面倒くさく、相手のリアクションをいちいち気にしてしまうし、
③はストレスそのもの。④は論外です。(でも③④はとても多い。)
その面倒臭さを、子供に受け継ぎたいか。答えはNOでした。
それに結局は、「あるがままにあれ」と思っているので、
余計な手間をかけずにいれば別姓になるのなら、その制度に従おうと思ったのです。
世の中(と言うか、Twitter)では、「夫婦別姓(選択制)」関連の議論を頻繁に見かけます。
私は別姓も選択できるようにするべきだと思っているのですが(だって、"選択肢が増えて困る"人って、一体誰ですか。)、ある意味では他人事だとも思っていました。
日本人女性との結婚を決めていた自分にとっては、自分たちが別姓になる事は決まっている未来だったからです。
でも、そう単純ではありませんでした。
在日韓国人+日本人って組み合わせはもっと余計な事まで考えさせられる事になるんだなぁと、実際にやってみて、勉強になりました。
でも、こんな事で悩まなければならない自体、正当ではない話だとも思います。
通名を使った事はありませんが、通名が「必要」な社会である事を改めて認識する機会となりました。
私の名前も二通りの読み方(朝鮮語読みor日本語読み)を持っていますが、名前を二つ持っているなんて、面倒でしかありません。(通名ならなおさら面倒だと思います)
通名が不要な社会であれば、誰も使わずに済むと思うのですが、
実際そうなるには、残まだまだ時間がかかりそうですね。
※人によっては、この話を「差別に屈した」とか、そういう風に受け取る人もいるかもしれません。もしもそう言われたら私は、うっせーよ、と答えます。
子供のアイデンティティを考える上で、なかなか重要な選択ですから、それこそ差別にも、「○○人なら××すべき」みたいな押し付けにも、屈する理由はありません。
私は在日朝鮮人(後に国籍を変えて在日韓国人)の家庭に生まれ、在日朝鮮人(もしくは在日韓国人)としてのアイデンティティを築いていますが、生まれてくる子供はそうではありません。
子供は、ありのまま、「在日韓国人と日本人のハーフ」として育つでしょうし、それはもはや自分の経験では語れない領域です。そこに名前を押し付けて、世界を狭めたくない。
私は、生まれてくる(かもしれない)子供には何より、自由であって欲しいと願っています。
Twitterはいつもおっぱいの話をしています。→そんきょば() (kyonghagi) on Twitter
日韓結婚アレコレ(1) 国籍の違いについて親族の反応を気にしたって話
(1)国籍の違いについて
「自分が連れてくるパートナーは在日韓国人かもしれないし、日本人かもしれないし、もっと別の国の人かもしれない。
中には在日韓国人同士しか結婚を認めないなんて(古い)親もいるらしいけど、
私達はそう育てられていないし、今となっては在日韓国人と新しく知り合う機会も無い。
もし在日韓国人以外と結婚する時になって今更、国籍がどうだと反対されたら、その時は大喧嘩を覚悟して欲しい」
『相手の国籍が何であろうと関係無い。幸せならそれでいい。』
※今回、自分達がどれだけ恵まれているかとよく実感しましたが、そうでない家庭もきっとあるでしょう。
国籍がどうだとか気にせずに、誰もが好きな人といられるようになっていくといいなあと、まるで他人事のように思います。・・・当たり前な事のはずなんですけどねえ。
続きはそのうちにまた書きます。たぶん。
ではではー( ´ ▽ ` )ノ
我輩はバカである
褒められた事では無いけれど、私はよく、人をバカと呼ぶ。
特に、インターネットをしている時に多い。
在日韓国人である事を表明してインターネットを使っていると、色々な声が届く。
それは人種差別的な内容だったり、誰かが妄想したデマだったりする。
ひどい事を言われる事も多々あるけど、死ねとか殺すとかいう言葉は使いたくないし、属性に絡めて非難するつもりも当然無いから、
「バカな事を言った」という理由で、単純にバカと呼ばせてもらってる。
当たり前だけど、大抵は気分を悪くし、反論してくる。
バカはお前だ!と。
あとはガキの喧嘩のような、誰も得をしない、不毛なやり取りになる。
でも、そういうやりとりをしてて不思議に思うことがある。
あのーー、、、、
『自分は絶対にバカじゃない!』と思ってる人、多過ぎやしませんか。
デマに騙された人に、デマを指摘しても、受け入れない。
屁理屈をこねてまで、そのデマをさらに強く信じこもうとする始末。
直接的/間接的を問わず、バカと思われる事に耐性が無い人がこんなに多いのか、と愕然とする。
ここではっきり、明言しておきたい。
私はバカである。
それはもう、本当にバカである。
自分自身はその事を、ひとつの真実として受け入れているつもりだ。
完全無欠の人間がいないのと同じで、
バカじゃない人間なんかいない。
誰でも、比較や文脈により、バカになりうる。定義次第だろう。
だから、バカと呼ばれる事があっても、それは一種の「仕方がない」事だと思う。
「Exactly!(その通りでございます!)」って感じだ。
みんな、自分がバカである事をもっと知るべきだ。
自分がバカであると知っていてこそ、自分の知識を疑う事ができる。
本当かどうか、検証しようと思える。
自分だけは絶対に騙されない!なんて、賢ぶるから騙されるんじゃないか。
自覚しよう。
俺たちはみんな、バカなんだ。
かなり、バカなんだ。
いいかい。
君は、かなり、バカなんだよ。
か、な、り、バカなんだよ。
わかってないのかい?
さすが。。。
ほんとにバカだね。。。
はぁ。。。。
・・・いきなりこう書かれれば、やっぱりムカついたりするだろうし、色んな反応があると思う。(もちろん、謝る準備はできています。笑)
でも、バカにされた時の自分の反応を、少し観察してみて欲しい。
『自分がバカだなんて、絶対にあり得ない!』という反応なのか、「確かにバカだけど、お前にそんな風に言われる筋合いは無い!」という反応なのか。
自分の不足を疑わない者と、自分の不足を知る者。
こういう姿勢の違いって、結構、いろんなところで差のつく部分じゃないかなあと思います。
属性と個人のあいだ。
12年通った朝鮮学校で、「ウリナラ」や「チャングンニム」という言葉を覚えた。
「ウリ(私達の)ナラ(国)」はいわゆる北朝鮮の事で、「チャングン(将軍)ニム(様)」は故・金正日将軍の事だ。
俺はこういう言葉が嫌いで、よく「ソンセン(先生)ニム(様)」と喧嘩した。
「ウリ(私達)」の中に、俺を勝手に含めたのは誰だよ!とか、
会った事も無いどこぞの将軍を、どうして様付けで呼ばなきゃいけねえんだ!とか、そんなん。
だから中学以降、ウリナラはチョソン(朝鮮)、チャングンニムはチャングン(将軍)もしくは正ちゃんと呼ぶようになった。
ついでに先生を様付けするのも嫌だったから、「ソンセンニム」の代わりに、「キョウォン(教員)」と呼んでいた。実に反抗期らしいエピソードだと思う。
こういう文句を言うと、同級生の仲間からは「よく言った!」という喝采を受け(マジメーーーな生徒からどう思われていたのかは知らん。たぶん授業の邪魔すんなって思われてた)、教員からはいつも「在日朝鮮人なら〜」とか、「私達の祖国を解放したのは〜」みたいなお説教を聞かされた。
こちらの不満はそもそも「俺が在日朝鮮人に生まれたからって、勝手に一括りにするな」「勝手に俺の"祖国"にするな(※実際、9割以上の在日の"故郷"は韓国だ)」「自分の知らん国を解放したからって、どうして俺が様付けするんだ」という内容なんだから、この教員のお説教は全く的を外しているし、今思い返してもイライラする。
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周りを見回してみれば、どうもこういう事は、朝鮮学校に限らずそこら中に溢れているようだ。
「日本人なら〜(自分と同じように考え行動するだろう)」と言いたがる自称・普通の日本人さんが沢山いるし、偉い血筋だかよくわからないままに天皇への様付けが一般化している。
たまに朝鮮学校について「洗脳教育」とか言う人がいるけど、そういう君らも同じような環境で育ってるぞ、と思わずにはいられない。
あらゆる教育は、「まっさらな状態の者を、その社会に適合するように変える」という意味で十分に「洗脳」なのだけど、「自分は洗脳されていない」という前提で考える人がとても多い。
もしかすると、深く洗脳されてるからこそ気付けない、という事なのかもしれない。
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こんな調子で、在日韓国人3世として生まれた自分は、20歳ぐらいまでの期間をいちいち悩んで過ごした。
抱えて生まれてきた属性と、自我を持つ独立した個人との間で、自分の立ち位置をどこに置くかが一番の問題だったけど、
結局は、『民族とか国籍なんて属性とは無関係に、個人を基準に考える』というスタンスに落ち着いた。
「属性で一括りにされる事」に憤る事が、人生に多過ぎたのだと思う。
朝鮮学校での例は既に挙げたけど、「属性で一括り」の例は他にも、インターネットを開いていれば毎日見かける。
曰く、在日は犯罪者で、朝鮮人は世界一卑しい民族。(繰り返される罵詈雑言については、その目で実際に見てみて欲しい。)
曰く、日本人は世界一素晴らしい民族。(Amazonの売れ筋上位にこういう本が来るのを見ると、申し訳ないけど、心底気持ち悪いと思う)
会った事も無い人から自分や自分の大切な人達を犯罪者呼ばわりされ、今日生まれた赤ん坊ですら、血筋を理由に侮辱される。ひどい時にはゴキブリ呼ばわりだ。
一方でそんなひどい事を言ってる本人はと言えば、他人の手柄で自分の自尊心を満たし、自分は常に正しく清らかだと言わんばかりに振舞っている。
・・・気持ち悪いなあ、と思わずにはいられない。
属性についてはいろんな考え方があるし、そうやって群れを作るメリットも、何となくわからないわけでもない。
ただ俺はやっぱり属性なんかどうでも良くて、何も悪い事をしていない個人を悪く言うのはおかしいし、良い事をしていない個人を良く言うのも納得いかないなと、そう思うんです。
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ところでヴィンランド・サガって漫画が大好きなんだけど、最近出た新刊にものすごく良いシーンがあったので、最後に紹介したい。
戦争中の場面で、主人公が"敵"を前にしてこう言うんだ。
あんた方とは今日会ったばかりだ。
お互いの事は何も知らない。何の恨みも無い。
親玉同士がいがみ合ってるだけだ。
俺達が血を流し殺しあう理由なんか無い。
俺達は今日会ったばかりだ。
あんた方は俺の敵じゃない。俺に、敵なんかいない。
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